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【第1回】アートとの出会い ~『学校化された知』からの解放~

佐伯胖(さえき・ゆたか)
青山学院大学社会情報学部教授、ヒューマン・イノベーション研究センター長、東京大学名誉教授

掲載日:2011年03月25日

アートとの出会い ~『学校化された知』からの解放~

私が最初に申し上げたいことは、人は何かを考えようとするとき、同時に別の何かについて考えないようにしているということです。私たちは何もかもを同時に考えることはできません。何かについて考えようとするということは、別のことを考えないようにするということを伴っているのです。人は常になんらかの世界の中で、その世界固有の《身体技法》を身につけます。その世界の中で、ある独特の身体の対応の仕方といったものを知らず知らずのうちに身につけるものなのです。この中で、知ろうとすること、分かろうとすることが選択され、制限され、促進させられるわけです。しかし他方で、知ろうとしないこと、分かろうとしないこと、これもまた選択され、制限され、促進されているということがあります。両方が、まるでコインの裏表のように、ひとつのある世界に入っていくということは、別の世界のことをみないようにする、分からないようにする、知ろうとしないようにするということ。《見ている》ということは、別のことから目を閉じているということを伴うということです。そのことを示すビデオがあります。

【ビデオ映像:チンパンジーに、グミの入った箱の開けるための操作方法を教える。同様に、人間の子どもにもグミの入った箱の開け方を教える。つぎに同じ構造の透明の箱に変える。実は、この箱を開けるには、先ほど教えた操作は必要ない。】

チンパンジーは、箱が透明になった段階で、それまでの動作が全部無意味だということを理解して、窓を開けて直接グミを取った。ところが、人の子どもは、透明の箱だからトントンと叩いたり、上から棒をつっついても意味がないということが歴然としているにも関わらず、大人がやった通りの動作を真似る。さらに驚くべきことは、どうぞ好きに取ってくださいと言って、大人が退出して誰もいない状態でも、まったく無意味な儀式のような作業を全部やるんです。

これは、不思議な話しですね。実をいうともっと小さい2歳とか3歳ぐらいの段階ですと人の動作を真似するときに、そっくりそのまま真似をするのではなく、なんでそうするのかなという、行為の意図をちゃんと把握して真似をするんですね。ところが、4〜5歳のくらいになると、意図を真似するのではなく、動作をその通り真似するというようになります。つまり、教えてもらうということへの適応性が生まれ、「やってみせるよ」と言われたとたんに物事の因果関係とか理由を全部遮断して言った通りのことを真似るというスイッチが入るのです。小学校に入るとすぐ、先生の言った通りのこと、たとえば挨拶の仕方もそうですし、手をあげてから質問をするといったマナーや筆箱の中に鉛筆を何本入れるかといったことまで全部、意味を考えることなくその通りに従うというように私たちは向かってしまうんです。
私が最初に言ったように、私たちは何かを考えようとするとき同時に何かについて考えないようにする、つまり何かを考えようとするときは、大人に言われたこと示したことについて理由を問わないことにするというスイッチが入ってしまいます。これは社会生活の適応ということに対して、人間がつくってきた文化といえば文化です。確かに、さまざまな文化を伝承するときには、ものを考えないでその通りにするということはある意味で非常に重要ですね。でも、そういうことに私たちは自然に向かってしまうということがあります。

私たちは、学校に入ったとたん、そこで物事を知る知り方についての、ある特有の身体技法を身につけてしまう。その身体技法の中では、学校では非常にうまく適応できるし、そして先生もそれをうまく利用する、子ども達もその中でうまく生きていく術を身につけるというようになっていく。いま私たちは、それが本当に良かったのだろうかと問わないといけない時期にきています。

私たちは、学校でものを知るということは、全て勉強を通してなんだと考えるようになっています。勉強で学習するというときは、知識というものにはとにかく文脈は関係なく、どういう場合にはどういう答え方をするんだということを、全部覚えるべきこととして身につける。基礎から応用、展開という順序があるのだから、その順序を飛ばしてはいけないんだと。つまり、教えられなかったら学べない、あるいは競争することによって身につけるということをやっていくんです。物事の意味を問うということは、問題を出す人が考えるのであって、答える人は答え方を知っていれば良い。考えないことを学んでしまうという実体があります。

1987年に横浜市立の小学校3年生から6年生を対象にした調査で「4×8=32という計算の問題をつくってください」と聞いたところ、半数近くの子ども達が全然意味がないんだけれどいかにも文章題っぽい文章をどんどんつくるんです。
「4本のリボンがあります。8人の子どもに分けたいと思います。リボンは何本あればいいでしょうか。」とか、「ある人はみかんを4個を持っています。もうひとりがみかんを8個もっています。このみかんの積を求めなさい。」さすが6年生は積という言葉を使う。「水が4dl入っています。8dlを姉さんが持っています。かけ算をして式を書きなさい。4×8=32です。」こんなのが延々と続くんですね。問いを出されたら答えるものだとばかり思っていて、問いをつくれと言われたら意味を考えない。これは全く考えないということを私たちは学んでいる、学校教育の中で考えることを教えているつもりでいるのは、実は考えないことを教えている、ということが起こっていると言えます。

―アートと出会うということ

ここで、アートと出会うというのはどういうことなんだろうということを私なりに考えたいわけです。

よくある例は、アーティストはアートを見せる、それを鑑賞する人たちは観客のように眺める、鑑賞する。つまりアーティストとそれを見る側というように、ふたつに分けてしまうのが多いんですね。そうじゃなくて、アートという世界の中に自分も入り込むことによって、物事の勉強的でない知り方を知るという身体技法を経験してみることがアートとの出会いなんだということです。

学校は、文字というものに依存する思考を強要する。ものを考えるということは、文字、言葉できちんと正確に表現していくということだという身体技法です。だからさきほど文章題をつくった子ども達も、実に巧みに文章を書きますし、算数の文章題のスタイルはみごとに獲得している。言葉っぽいことをきちんと捉えるということは実にうまくいく。価値を一元的に捉えるとか、物事をカテゴリー的に捉えるとか。ものを捉えるときは客観的でないといけない、しかし誰にとってということは考えなくていいんだという見方ですね。

ところが絵画というものは、全体から部分ができていて、さまざまなものへの配慮とか、調和とか、関心というものが埋め込まれている。多元的価値、カテゴリー化できないものや主観というものを大切にするのが、絵的世界。絵的世界に触れるということが実は脱学校的な身体技法になるわけです。

私たちはアートと出会うときには、《根源的能動性》というものに従うことになる。つまり自分の中から沸き起こってくるもの、自分の中からなにか変化をつくりたくなることに向き合うことが非常に大事。学校的な身体技法とは、常に外側から行為を指示され、それに従うこと。自分自身で動こうとする根源的な能動性の出発点を大事にするというようなことは許されないという身体になっている。根源的能動性にもう一度戻るということがアートとの出会いの非常に重要な点だと思います。

重要なのは、私たちが、アートと出会うというときには、さまざまなものの中に入るという理解をするんだと。そういう物事の世界の中に入るという理解の仕方と、それを外側から眺めてしまうという理解とに違いがあって、眺めてしまうような見方をしているとそれは、学校的ななにかしら表面的なことを真似ていればいいという発想になってしまう。

―《根源的能動性》とアートの関係

つぎに《根源的能動性》は同時に《根源的受動性》でもあるという、矛盾するようなことをお話しします。 あらゆるものになってみるということは、むしろある意味では受動的なんです。そのことを詩人のジョン・キーツ(John Keats)が、《ネガティブ・ケーパビリティ(Negative capability)》という表現をつかって、物事が本当に真だということがわかるのは、いろんなものになってみるからなんだということを言っている。《想像力が美として把握したものこそが真実》であるに違いないと。「詩人というものはこの世に存在するものの中でもっとも《非私的》なものだ。なぜなら詩人にはアイデンティティがないからだ。詩人は部屋の中に人々と一緒にいるとき、自分の頭の中がつくり出すものについては考えることをしていない。部屋にいる全ての人のアイデンティティが僕に迫って来る。その結果僕はたちまちのうちに無に帰するのだ」と。これはさまざまな世界の中に自分がどんどん入って行く、あるいは世界が自分の中に入って来るとも言えるわけですね。ネガティブ・ケーパビリティ、つまり向こうの世界がこちらの中にどんどんと入って来ることをそのまま受け入れて行く。そして、自分を無にして対象と同一化していく。対象の内部で働く力をそのまま感じ取っていくこと、それが想像力による真実の把握なのだというわけです。真実性の感覚というのは実は 美の感覚だ。さまざまなものの世界の中に自分が入って行く、あるいはさまざまなものが自分の中に入って来るという経験の中で、ああこれが本当なんだということを美という意識と同時に経験されるということ、そういったことを《ネガティブ・ケーパビリティ》と呼んでいるわけです。

私たちは、その世界の中にどんどん入り込む力が必要で、それがアートの理解というものです。アートの理解には、《エヴァリュエーション(Evaluation)とアプリシエーション(Appreciation)》のふたつがあります。批評家的にみるのはエヴァリュエーション。静止した絵をみても、彫像をみても、あるいは単なる石ころのようなひとつの固まりをみても、それをある変化の動きの中のひとつの場面としてみる。それがアプリシエーションというもの。私たちには、これってどういうことなのかなと周辺との関係をみるというまなざしもある。するとだんだん鑑賞者的まなざしになるし、そして批評家的まなざしになるわけです。作品を評価するときには、時代背景や他の作品との関連を読んだりするというエヴァリュエーションになる。このようにいったりきたりしながら私たちは世界をみているということです。

どちらかというと、学校的な見方はエヴァリュエーションで教えてしまい、一つの場面を一つの解釈で固定してしまう。そこから脱して作品の中に入っていく、登場する世界やものの中に入っていくという理解を学ぶのが脱学校的です。私たちがアートの世界を知るということの一番の基本は、アプリシエーションの波に乗るということです。 フェルメールの「牛乳を注ぐ女」これは有名な絵ですね。数年前に認知科学の学会誌でこの場面だけを分析した研究がありました。この牛乳を注いでいる注ぎ口は、まさに牛乳を注ぎ終わる寸前のことだということが非常に細かく解析されたものでした。 この絵をひとつの時間の流れの中でみたときに、この人のまなざしや表情にくわえ、つぎにどうするのだろう? 火にかけようとしているのかな? と、動きとしてもみえてくるわけです。このように私たちは、自分が動こうとしている能動性というものと同時に、目に入ってくる受動性というものとがそこで同時に出会う。根源的能動性と受動性が同時に出会うというのがアートとの出会いだということです。

―《アートする》こと、もう一つの知の身体技法

アートは理解するということもまたアートだ。アートとは、動詞だ。《アートする》ことなんだということを最後に申し上げます。 今日の私の決め手の文句としてこれを言おうと思ったんですが、今日の報告を拝見すると、まったくこれを実践されちゃってるんですね。私が言うまでもなく、まさにみなさんの実践は「アートはすることなんだ」と。アートを理解する側とアートをみせるアーティストとが区別なく一体となっている。映像でおじいさんが「あなたもアーティスト、あなたもアーティスト」と言って児童ひとりひとり全員に指差していましたが、それのことなんです。アートというのは、アーティストがすることだけがアートじゃない。アーティストとは、アートすることを広げる人なんです。みる側、アートに感化を受ける側も、アートをみながらそれを理解する側も《アートしている》んだということです。そうしたことに出会うのは、今日私が最初に言った、学校化されていない、勉強的でない知り方、もう一つの身体技法としてのアートとの出会いということです。 ありがとうございました。

佐伯胖(さえき・ゆたか)
青山学院大学社会情報学部教授、ヒューマン・イノベーション研究センター長、東京大学名誉教授

昭和14年生まれ。青山学院大学社会情報学部・社会情報学研究科教授、青山学院大学ヒューマン・イノベーション研究センター長、東京大学名誉教授。 <略歴> ワシントン大学大学院心理学専攻博士課程修了(Ph. D.)東京理科大学理工学部助教授、東 京大学教育学部教授、同学部長・研究科長を経て停年退官後、青山学院大学文学部教育学科教授、 2008年4月に移籍により現職。 <研究関心> 状況的学習論をベースにした人間の「学び」を研究している。また、「学び」様式のねじれをときほぐす「アンラーニング」にも関心をもっている。 <主な著書> 『幼児教育へのいざない』東京大学出版会、2001年 『「学び」を問いつづけて』小学館、2003年 『「わかり方」の探究―思索と行動の原点―』小学館、2004年 (編著)『共感』ミネルヴァ書房、2007年

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